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プレゼン

プレゼン



私は、「龍が如く」シリーズのテーマを、「再生」だと見なしております。



一度道を外れた者が、どう引き返してくるのか、どうやり直していくのか、

そもそも「やり直す」ということが人には可能なのか……。


それを提示する物語である、ということです。




人間、犯罪絡みという意味ではなく、人生において「道を外れること」が往々にしてあります。


そんな「道を外れること」のメタファーが、「龍が如く」においては「極道になること」とされていると考えるのです。








だからでしょう、「龍が如く」は極道賛美の物語ではありません。

しかし、桐生を含め、登場人物たちの多くは、東城会が栄えることを是として動いております。




つまり、「龍が如く」という世界においては、


「極道たること」「立派な極道として生きること」は絶対に正解ではないにもかかわらず、


「ケツを割る形で極道を辞める」というだけでは、いったん極道となった者の再生とはなり得ない――


ということです。








だからこそ私には、

そんな状況に置かれたままの桐生の再生ないし再生の兆しを示さない限り、


「桐生一馬の物語の大きな区切り」を明言するのは早計に過ぎると思われたのです。








桐生は「龍が如く6」において、いつもどおり「事態収拾」に奔走したのであり、そのことで手一杯であって、

本人の再生について考えを向ける暇は一切ありませんでした。


桐生が本人のためにやったことは、


序盤の「極道だった過去を清算するつもりで服役する」と、


終盤の「桐生一馬を殺す」のみです。




しかしながら、服役では過去は消えないので、再生とはなりません。


桐生一馬の戸籍を消すことも、世界の平和には貢献しますが、桐生自身の再生には寄与しません。


桐生のおかげで「龍が如く」という世界の平和は、「龍が如く6」においても保たれましたが、

桐生自身は今なお、立ち止まったままなのです。








あくまで個人的見解ではありますが、私は「人の再生」には「自己受容」が不可欠だと考えております。

それこそが、再生に向けての最初の一歩です。




しかし桐生は、自身が「極道であったこと」「今なおヤクザ者の気質を持つこと」を自覚してはいるものの、

未だそれを受容してはおりません。


だからこそ、依然として自身の中にあるヤクザ者の気質に気付くたびに、


それを「厭わしいもの、許されざるもの、在るべからざるもの」と考えてガッカリするのです。




「過去や自分自身とは決別できない。だから、それを受け入れて生きてゆく」

その心の受容なくして、どうして桐生の再生が望めましょうか。








まして、大吾に至っては「立派な極道となる」地点に辿り着いたばかりです。


真島と冴島も「立派な極道の先達として、大吾を支えてゆく」という立ち位置に置かれたままです。




もしここで、彼らの生きる「桐生一馬の物語」がいったん区切られてしまっては、


公式が「立派な極道として生きること」を是としたことになってしまい、


「龍が如く」の世界観に抵触してしまいます。








また、この後ストーリーは「龍が如くONLINE」と「新・龍が如く」へ突入するのですから、その前に、



「なぜ桐生が表舞台から消えたか」

「なぜ春日一番の出現が桐生一馬にとって必然であったか」




という理由も明確にすべきであると考えます。

なおかつ、「龍が如く6」が「桐生一馬最終章」であることを譲らずして「龍が如く7」を桐生の物語として成立させる――


以上の全ての答えを具現化したのが、拙作の「龍が如く7」です。








――と言うか、「でした」。

だって公式の新作が「龍が如く7」名乗っちゃうんだもん。・゚・(ノД`)・゚・。








ともあれ、「龍が如く七」ということになった拙作は、単なる「龍が如く6」の続編ではありません。


実を言うと、神=名越氏のおっしゃる「桐生一馬の物語の大きな区切り」としての一編です。


つまり桐生一馬カムバック作ではなく、トドメの一撃なのです。








私は決して「龍が如く6」の内容そのものを否定しているわけではありません。


ただ、「龍が如く6」が「桐生一馬の物語の大きな区切り」とされることに違和感を覚えるのです。


そして、拙作の「龍が如く七」こそ、その区切りを付けられる作品だと信じております。








以上、「プレゼン」ですので、最大限にカッコつけて、大きく出てみました。







ぐっさん◎拝



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